大量生産の既製服が市場を席巻する現代にあって、長崎市に1912年創業の高級紳士服オーダー専門店「南部洋服店」があります。4代目の南部光伸氏(2019年1月より長崎東ロータリークラブ会員)が率いるこの店には、長崎県内だけでなく遠方からも注文が途切れることなく、顧客には半年以上待ってもらうこともあります。インターネットでの宣伝は一切行わず、口コミだけで顧客の輪が広がり続けています。
なぜ、これほど多くの人々が半年も待ってまで、この店の服を求めるのでしょうか。その答えは、南部氏が貫く経営哲学と、一針一針に込められた職人の魂にあります。
「4万5000針」が生む絶対的な品質
紳士服1着を仕立てるには、4万5000針が必要とされます。南部氏は父である3代目とともに、生地選びから採寸、製図、仮縫い、仕上げまでのすべての工程を自らの手で行います。この「一針入魂」の精神こそが、南部洋服店の品質を支える根幹です。
製作ペースは月平均で4~5着。効率性を追求すれば、もっと多くの服を仕立てることも可能でしょう。しかし南部氏は、この非効率性こそが競争力の源泉だと考えています。丁寧な作業工程のため、既製服よりも価格は高くなります。ただし、その価格差は単なるコストの違いではなく、職人が一着一着に注ぐ時間と心意気の対価なのです。
創業以来、南部洋服店が守り続けてきたのは、職人自身がすべての工程を担う体制です。この技術継承によって、顧客一人ひとりの体形や好みを正確に把握し、その人だけの一着を生み出すことができます。
口コミが紡ぐ信頼と「物語」の経営
南部氏が広告宣伝に頼らないのは、製品そのものと顧客との関係性こそが、最良の宣伝になると考えているからです。南部氏は、これまでに作った紳士服をほぼすべて覚えています。顧客との対話や作業工程を含めた一連の流れを「一つの物語」として捉えているのです。オーダーメイドの紳士服は、南部氏にとって単なる製品ではなく、顧客との共同作品です。
さらに、南部氏が仕立てる服は「生き物」だと言えます。年数がたって顧客の体形が変わっても手直しができるように作られており、長く着用することで体に馴染んでいきます。この長期的な製品価値こそが、顧客との深い信頼関係を築く基盤となっています。
顧客の一人は、南部氏の心意気に感動し、「着心地が素晴らしい。いつも着るのが楽しみで、ワクワクする」と語っています。この言葉は、南部氏の服が単なる衣服を超えた存在であることを物語っています。
職人としての誇りと世界基準への挑戦
南部氏の名刺には「4代目、職人」という肩書が記されています。この短い言葉には、南部氏のプロフェッショナリズムと誇りが凝縮されています。経営者であり、職人である。この二つの顔を持つことで、南部氏は伝統を守りながらも、常に技術の向上を目指しています。
その証として、南部氏は資格取得やコンテストに積極的に挑戦してきました。2010年には1級紳士服製造技能士の資格を取得し、2018年には若手育成ビスポークテーラー作品コンテストで最優秀賞を受賞。2024年には技能グランプリで銀賞を獲得しています。これらの実績は、南部氏の技術が世界的な品質基準に達していることを示しています。
南部氏が特に注意を払うのは、服をまとった紳士の「後ろ姿」です。「背中(背広)」の姿が決め手になると考えており、コンテストでも背中が重要な評価ポイントとなっています。この美学へのこだわりが、南部氏の作品を他と一線を画すものにしています。
持続可能な「職」のレガシー
南部洋服店の経営哲学は、技術と伝統を継承しつつ、顧客一人ひとりとの深い信頼関係を築くことで成立しています。価格競争とは無縁の、品質と信頼を基盤とするビジネスモデルです。
現代のビジネス環境において、効率性と生産性の追求は重要です。しかし南部氏の経営は、それとは異なる価値観を提示しています。一針一針に心を込めること、顧客との物語を大切にすること、そして職人としての誇りを持つこと。これらの要素が組み合わさることで、半年待ちの顧客が途切れない経営が実現しています。
南部洋服店の事例は、高付加価値を生み出すためには、必ずしも大量生産や効率化だけが答えではないことを示しています。むしろ、非効率性の中にこそ、他では真似できない競争力が宿ることがあります。技術と信頼、そして物語。これらを大切にする経営こそが、持続可能な「職」のレガシーを次世代へと繋いでいくのです。
