昨日まで普通に働いていた社員が、ある日突然退職を申し出てきます。面談では大きな不満を口にしていなかった。目立ったトラブルもなかった。理由を尋ねると、直前にあった小さな出来事を挙げられ、「そんなことで辞めるのか」と戸惑ってしまう。中小企業の経営者であれば、一度はこうした経験をお持ちではないでしょうか。
社員が辞めていく理由を理解し、居心地の良い組織をつくるために、本稿では3つの視点を取り上げます。不満が蓄積していく「心のコップ」の仕組み、職場の空気を左右するベテランや管理職の姿勢、そして社員の本音を把握し全員に出番をつくる仕組みです。
退職の理由は直前の出来事ではありません
人が組織を去るまでの過程は、「心のコップ」に例えると分かりやすくなります。人は誰しも心にコップを持っています。組織の中で無視される、仲間がいない、入る前に思い描いていた姿と違う。こうした日々のストレスが「ストレ水」としてコップに少しずつ溜まっていきます。
一方で、水位を下げる働きもあります。居心地の良い職場、仲間との交流、仕事を通じて得られる満足感です。溜まる量と減る量の差し引きで、コップの水位は日々上下しています。
ところが減る量を溜まる量が上回り続けると、水位はやがて縁に達します。そしてある日、最後の一滴が加わった瞬間に水があふれ、心が折れて退職に至ります。
ここで注目すべきなのは、周囲の受け止め方の誤りです。周囲の人は、あふれる直前に加わった最後の一滴だけを見て、それが退職の理由だと考えがちです。しかし本当の原因は、それまでに長い時間をかけて蓄積されたストレ水のほうにあります。最後の一滴は、引き金にすぎません。
職場では、この構図が驚くほどよく当てはまります。退職の直接のきっかけとして語られるのは、上司の何気ない一言、希望とは違う配属、評価面談での食い違いといった出来事です。しかしその背後には、相談できる相手がいない孤立感、何をすれば評価されるのか分からない不透明さ、入社前に聞いていた話と実際の仕事とのずれが、何か月、何年にもわたって溜まっています。
この理解が欠けていると、経営者は誤った手を打ってしまいます。直前の出来事だけを原因と考え、その上司を注意する、配属の決め方を変えるといった対処をしても、他の社員のコップに溜まっている水は少しも減りません。退職者が出たときに問うべきは「何が最後の一滴だったか」ではなく、「水が溜まり続けていたことに、なぜ誰も気づかなかったのか」です。
もう一つ重要なのは、水位を下げる側の働きです。認められている実感、仲間と一緒に何かを成し遂げた手応え、自分がこの組織に必要とされているという感覚。これらはコップの水を日常的に抜く役割を果たします。給与や制度の改善は大切ですが、それだけでは日々溜まっていく水を抜くことはできません。日常的にお互いに心を配り、愛情を持って接することが欠かせないとされるのは、まさにこの点を指しています。
居心地を左右するのはベテランの姿勢です
組織の居心地を悪くする要因として、ベテラン社員の姿勢も見過ごせません。率直な表現ですが、いわゆる「老害」に陥る2つの条件として、次のようなものが挙げられています。一つは「自分は常に正しい」と思っていること、もう一つは「自分に意見を言ってくる人は生意気だ」と感じることです。
この2つは、本人に自覚がないまま身につきやすいという点で厄介です。長く在籍し、多くの経験を積んだ人ほど、自分のやり方に自信を持ちます。その自信が実績に裏打ちされているからこそ、異なる意見を聞く必要を感じなくなります。そして若手から意見が出たとき、内容ではなく「誰が言ったか」で受け止めてしまいます。
若手社員の定着率が低いとき、経営者はつい若手の忍耐力や意欲に原因を求めがちです。しかし実際に職場の空気をつくっているのは、在籍年数の長い社員や管理職です。古参の社員が新しいやり方を頭ごなしに否定する、部下からの提案を立場で判断する、失敗を指摘しても成果は褒めない。こうした日常の振る舞いの一つひとつが、周囲のストレ水になっています。居心地の問題は、新しく入った人の側ではなく、長くいる人の側から捉え直す必要があるのです。
求められるのは、ベテラン自らが自省し、若い世代から受け入れられる振る舞いを身につけること、そして若手を褒めることに努めることです。これは管理職の育成にもそのまま通じる考え方です。
具体的には、次のような転換が求められます。部下の意見に対して、まず否定ではなく「なぜそう考えたのか」を尋ねる。自分が正しいと思うときほど、相手の言い分を最後まで聞く。小さな成果でも、気づいたその場で言葉にして認める。説教によって正すことから、受け止めて伸ばすことへと、関わり方の重心を移していくのです。
ここで大切なのは、この転換を若手に求めるのではなく、ベテランと管理職の側が自ら引き受けることです。そして経営者自身が、最も長くその組織にいるベテランであるという事実も忘れてはなりません。社員からの意見を生意気だと感じた瞬間がなかったか。まず経営者自身が自らを振り返ることが、組織全体の姿勢を変える出発点になります。
本音を知り、全員に出番をつくる仕組み
心のコップの水位は、外からは見えません。気配りや愛情は欠かせませんが、それだけに頼っていては、気づいたときにはすでにあふれる寸前ということになりかねません。そこで必要になるのが、水位を把握するための仕組みです。
魅力ある組織づくりの第一歩は、全社員の本音を把握することです。そのうえで、組織の現状と将来について率直に意見を交わし、できるだけ多くの社員が役割を持って参加できる機会をつくることが、組織の一体感と独自の魅力を生みます。
この考え方には、取り入れるべき要素が3つ含まれています。
第一は、本音を見える形にすることです。従業員満足度調査は、組織の健康診断にあたります。定期的に実施すれば、どの部署でどのような不満が溜まりつつあるのかを、退職者が出る前に把握できます。ただし、調査を実施しただけで結果を放置すれば、「どうせ言っても変わらない」という新たなストレ水を生むことになります。結果を社員に共有し、何に手をつけるのかを示すところまでが、一組の取り組みです。
第二は、率直に話し合える場をつくることです。アンケートで分かるのは傾向までで、一人ひとりのコップの状態は直接話さなければ分かりません。上司と部下が定期的に一対一で話す時間を設けることは、その有力な手段です。ここで大切なのは、業務の進捗確認に終始せず、困っていること、引っかかっていることを話せる時間にすることです。部下が安心して本音を口にできるかどうかは、先に触れたベテランや管理職の姿勢に大きく左右されます。
第三は、全員に出番と役割をつくることです。先に挙げたストレ水の中には「仲間がいない」という孤立感がありました。孤立を防ぐ最も確かな方法は、組織の中に自分の役割があり、自分がいなければ困る人がいるという状態をつくることです。社内行事の幹事、業務改善の小さなプロジェクト、新人の指導役など、日常業務とは別の出番は意図的に用意できます。特定の人にばかり役割が集中していないかを点検することも、経営者の大切な仕事です。
役割を持った人は、組織の当事者になります。当事者として組織に関わる人が増えるほど、一体感が生まれ、その組織ならではの魅力が育っていきます。このことは、居心地の良さとは与えられるものではなく、参加することによって生まれるものだということを示しています。
あふれる前に水を抜く経営へ
3つの視点を通して見ると、一つの共通した考え方が浮かび上がります。離職は、ある日突然起こる出来事ではなく、日々の積み重ねの結果だということです。
そう考えると、退職を申し出た社員を慰留することに力を注いでも、効果は限られます。その時点ですでにコップの水はあふれているからです。経営者が力を注ぐべきは、あふれる前の段階で水位を下げ続けることです。
最後に、自社に持ち帰るための視点を3つに整理します。
第一に、退職者が出たときの振り返り方を変えることです。最後の一滴を探して対処するのではなく、その社員のコップに何が溜まっていたのかを、時間をさかのぼって考えます。同じ水が、他の社員のコップにも溜まっていないかを確かめることが、次の離職を防ぎます。
第二に、ベテランと管理職の振る舞いを点検することです。「自分は常に正しい」「意見する部下は生意気だ」という2つの条件に当てはまっていないか。経営者自身を含めて、長くいる側から姿勢を改めることが、職場の空気を最も大きく変えます。
第三に、本音を知る仕組みと、全員に出番をつくる仕組みを用意することです。満足度調査と一対一の対話で水位を把握し、役割を通じて孤立を防ぐ。気配りを個人の資質に任せず、仕組みとして組織に組み込むことで、居心地の良さは継続するものになります。
制度を整えることは大切です。しかし社員のコップの水を日々抜いているのは、制度よりも、互いに心を配り、認め合う日常の関わりです。あなたの会社では、いま誰のコップの水位が上がっているでしょうか。その問いを持ち続けることが、選ばれ続ける組織をつくる第一歩になります。
